香具波志神社

 楠七郎正賢さんこと楠賢悟(くすけんご)さんは、「南木(なぎ)〜楠木正成と南木の謎〜」というサイトを公開し、楠木正成をはじめとした楠木一族ゆかりの地や、一族のルーツ探しをした成果を紹介しています。南木とは、「楠」を分解した「木」「南」を入れ替えたもので、正成が湊川の戦いで自刃した後に正成を祭るために創建された南木神社と、楠さんの先祖が住んでいた南木の本村(今の大阪府八尾市)にちなんで付けたタイトルだとのことです。
 楠さんが楠木一族に興味を持ちはじめたのは、小学生のころ。「楠」と書いて一般的にはクスノキと読まれているのに、どうして自分の名字はクスと読むのか不思議に思っていたところ、教科書に楠木正成のことが出てきて、もしかすると自分のルーツと関係があるのかもしれないと考えたのだそうです。多くの文献などで先祖探しをしてきていますが、関係があるかどうかは「調査中でまだ分からない」。ただ、和歌山県の熊野速玉大社と熊野本宮大社に楠(くすのき)という人が勤めていたことが分かっていて、そちらに関係があるのではないかとも考えているそうです。
 楠木正成については、一般的には河内出身の土豪と言われているものの、鎌倉幕府に仕えていた北条氏一族説や、和歌山県出身説を主張する研究者もいるそうです。弟に正季(まさすえ)、正氏、正利がおり、また、姉か妹も何人かいたとのこと。子供も、よく知られた正行(まさつら)、正時、正儀(まさのり)はじめ何人かいました。鎌倉末期に後醍醐天皇が起こした倒幕運動に加わり、建武の新政に参加しましたが、反乱した足利尊氏と対戦し、湊川の戦いで自刃しました。

岩木神社

 楠さんによると、楠木正成は頭のいい人。しかし、潔い人という評価がある一方で、結構、悪いこともしてきたのではないか、とも思えるそうです。そして、信心深い人でもあったそうです。楠さんは、正成三男である正儀への思いが強いとのこと。南朝側から北朝側へと変わり、また南朝側に戻るという変遷のため評価が低かったものの、それは南北朝間で続く戦乱を収めたいがための行為だったのではなかと考えられ、北朝に変わったことで同族間での戦いもしなければならなかった状況もおもんぱかられるところ、とのことでした。

 さて、今回、最初に訪れたのは淀川区にある香具波志(かぐはし)神社。正儀が北朝方の敵と戦うため、近くを流れる神崎川に軍勢を配置した際に戦勝祈願をしたと伝わる神社で、境内には正儀が馬をつないだといわれる「駒つなぎの楠」があります。樹齢800年以上、高さ27メートルのクスノキで天然記念物にも指定されていまいたが、枯れてしまったため、今は幹のみが保存され、その上にほこらが祭られて「岩木神社」となっています。

小楠公義戦之跡

 次に訪れたのは、中央区の天満橋近くにある八軒家浜。 「小楠公義戦之跡」と刻まれた大きな石碑がありました。正成亡き後、楠木党の頭領にたった正行は、この周辺での戦で勝利しましたが、敵方が京都に逃げ帰る際、ここにあった渡辺橋に殺到したため多くの兵が川に落ちました。正行は溺れている敵兵を救い、薬や食糧、衣類も与えて京都へと帰したそうです。放置しておけば敵が減るのに、戦乱の世では考えられないことをした正行。恩義を感じた敵方の兵は、正行が最期を迎える戦で正行方に加勢して戦ったという話も残っているそうです。なお、正成が大楠公と呼ばれていたのに対し、正行は石碑に刻まれているように小楠公と呼ばれていました。しかし、縁の深い四条畷市や東大阪市では、「楠公さん」と呼ばれているそうです。
 楠さんはこの石碑の前で、鎮魂の意を込めてホラ貝を吹いてくれました。ホラ貝は戦をする際の陣貝のイメージが強いのですが、元々は仏事に使う法具で、この音が聞こえている範囲が浄化されていくという考えがあるそうです。

赤坂神社

 最後は、平野区長吉六反(ながよしろくたん)にある赤坂神社へ。その名前から、楠木正成の拠点だった千早赤阪村との関係が気になるところです。
 正成は後醍醐天皇の要請に応じて挙兵しましたが、その際のお城が赤坂城(千早赤阪村)。関東の軍勢がそれを目指してやってきた際、この神社がある(平野区の)赤坂村に間違えて来てしまったとのこと。困った地元の人たちは、「赤坂」の「赤」から縦と横の棒をいくつかとって「六」に、「坂」から土へんを取って「反」にし、「六反(ろくたん)村」と名前を変えたそうです。
 
 楠さんによると、大阪市内には他にも楠木一族ゆかりの地がいろいろあるとのこと。東住吉区には、正成が寄進した石灯ろうが残り、生野区や東淀川区には正成の子孫の墓もあるそうです。今回の3カ所を含め、楠木巡りをしてみるのもいいかもしれません。