楠七郎正賢さんこと楠賢悟(くすけんご)さんは、「南木(なぎ)〜楠木正成と南木の謎〜」というサイトを公開し、楠木正成をはじめとした楠木一族ゆかりの地や、一族のルーツ探しをした成果を紹介しています。南木とは、「楠」を分解した「木」「南」を入れ替えたもので、正成が湊川の戦いで自刃した後に正成を祭るために創建された南木神社と、楠さんの先祖が住んでいた南木の本村(今の大阪府八尾市)にちなんで付けたタイトルだとのことです。 |
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楠さんによると、楠木正成は頭のいい人。しかし、潔い人という評価がある一方で、結構、悪いこともしてきたのではないか、とも思えるそうです。そして、信心深い人でもあったそうです。楠さんは、正成三男である正儀への思いが強いとのこと。南朝側から北朝側へと変わり、また南朝側に戻るという変遷のため評価が低かったものの、それは南北朝間で続く戦乱を収めたいがための行為だったのではなかと考えられ、北朝に変わったことで同族間での戦いもしなければならなかった状況もおもんぱかられるところ、とのことでした。 さて、今回、最初に訪れたのは淀川区にある香具波志(かぐはし)神社。正儀が北朝方の敵と戦うため、近くを流れる神崎川に軍勢を配置した際に戦勝祈願をしたと伝わる神社で、境内には正儀が馬をつないだといわれる「駒つなぎの楠」があります。樹齢800年以上、高さ27メートルのクスノキで天然記念物にも指定されていまいたが、枯れてしまったため、今は幹のみが保存され、その上にほこらが祭られて「岩木神社」となっています。 |
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次に訪れたのは、中央区の天満橋近くにある八軒家浜。
「小楠公義戦之跡」と刻まれた大きな石碑がありました。正成亡き後、楠木党の頭領にたった正行は、この周辺での戦で勝利しましたが、敵方が京都に逃げ帰る際、ここにあった渡辺橋に殺到したため多くの兵が川に落ちました。正行は溺れている敵兵を救い、薬や食糧、衣類も与えて京都へと帰したそうです。放置しておけば敵が減るのに、戦乱の世では考えられないことをした正行。恩義を感じた敵方の兵は、正行が最期を迎える戦で正行方に加勢して戦ったという話も残っているそうです。なお、正成が大楠公と呼ばれていたのに対し、正行は石碑に刻まれているように小楠公と呼ばれていました。しかし、縁の深い四条畷市や東大阪市では、「楠公さん」と呼ばれているそうです。 |
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最後は、平野区長吉六反(ながよしろくたん)にある赤坂神社へ。その名前から、楠木正成の拠点だった千早赤阪村との関係が気になるところです。 |
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