今回は大阪市都島区毛馬地区を散策しました。ご案内いただいたのは、「大阪あそ歩」のガイドも務める都島在住の長谷川信正さん。長谷川さんによると、都島の歴史は古く、前期難波宮である長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)から見て、淀川の対岸にある島だったことから都島と呼ばれるようになったそうです。その都島の北西部にある毛馬は、江戸時代中期の俳人、与謝蕪村の生誕地であり、また、近代以降、大阪を洪水から救ってきた毛馬閘門(こうもん)のある場所として知名度はあるものの、人々が訪れる機会の少ない地でもあるそうです。 |
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与謝蕪村公園から少し北へ。淀川が新淀川と大川に分かれる地点近くの堤防上に、蕪村生誕地の碑がありました。高さは2メートル以上。碑には「春風や 堤長うして 家遠し」の句が刻まれています。この碑は二代目だそうで、初代の碑はもっと小さく、すぐ隣にある国土交通省淀川河川事務所の敷地の中にあるそうで、河川敷公園整備の際にこれが造られたそうです。 |
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次に訪れたのは毛馬閘門。淀川と大川は水位差があるため、行き来する船舶はここを通過しなければいけません。水位差は最大で約2メートル。ここはいわば「日本のパナマ運河」で、閘門は水量を調節する機能を持っています。取材時、上流側、下流側ともゲートが閉じられた閘門内の水位は、上流側と同じ高さでした。この状態で、もし、下流側から船が通るとしたら、まず下流側のゲートを開けて水を下流側に流して水位を同じにし、船を閘門内に入れます。それから下流側のゲートを閉め、今度は上流側のゲートを開けます。すると上流側から水が入って閘門内の水位が上がり同じになるため、船が出て行けるという仕組みです。現在、ここを通過するのは砂利運搬船が中心だということです。
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その初代閘門である「毛馬第一閘門」は、明治43年に造られた際の姿をほとんどそのまま残しています。
今、稼働している閘門のゲートが上下するタイプなのに対し、こちら初代と二代目は観音開き。それが違うだけで、あとの仕組みは同じだそうです。当時の川底にまで入って、いつでも見学できる初代の閘門。これが使われていた時の淀川と大川の水位差は1メートルだったそうです。 |
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長谷川さんが担当する、 大阪あそ歩「水の底に消えた蕪村のふるさと・毛馬村〜春風や堤長うして家遠し〜」のコース 都島駅(集合)→渡辺綱の大楠→毛馬桜之宮公園→淀川神社→蕪村生誕碑→毛馬の閘門→毛馬橋→バス停「毛馬橋」(解散) *大阪あそ歩のサイトはこちら→クリック |
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