与謝蕪村公園

 今回は大阪市都島区毛馬地区を散策しました。ご案内いただいたのは、「大阪あそ歩」のガイドも務める都島在住の長谷川信正さん。長谷川さんによると、都島の歴史は古く、前期難波宮である長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)から見て、淀川の対岸にある島だったことから都島と呼ばれるようになったそうです。その都島の北西部にある毛馬は、江戸時代中期の俳人、与謝蕪村の生誕地であり、また、近代以降、大阪を洪水から救ってきた毛馬閘門(こうもん)のある場所として知名度はあるものの、人々が訪れる機会の少ない地でもあるそうです。
  今回の毛馬歩きは、昨年3月にオープンした与謝蕪村公園からスタート。大阪には1人の人物を顕彰した公園が少ない中、蕪村のすべてが分かるパネルを置いている公園で、蕪村が幼いころに歩いた毛馬堤をイメージした道を再現し、その近くに蕪村の作った俳諧13句を蕪村の字で刻した碑を配置、碑の周りには関連する草花を植えるなどの工夫が施されています。例えば、「なの花や 月は東に 日は西に」の句碑の近くに菜の花を、「柳散り 清水涸れ石 所々」の近くには柳を、といった具合です。  →「柳散り」の句碑の様子はこちらをクリック

碑の横には蕪村が好きだった
梅の木
が植えられている

 与謝蕪村公園から少し北へ。淀川が新淀川と大川に分かれる地点近くの堤防上に、蕪村生誕地の碑がありました。高さは2メートル以上。碑には「春風や 堤長うして 家遠し」の句が刻まれています。この碑は二代目だそうで、初代の碑はもっと小さく、すぐ隣にある国土交通省淀川河川事務所の敷地の中にあるそうで、河川敷公園整備の際にこれが造られたそうです。
 ただ、生誕地とは書かれているものの、実際に蕪村がどこで生まれたかは分かっていないそうで、北側に広がる河川敷公園や淀川が旧毛馬村のあった所だとされていて、蕪村が生まれた場所は水没したとも言われています。かつて暴れ川だった淀川は、以前、ここ毛馬から流れを南寄りに変えて大阪の中心地を流れていた(現在の大川)ため、治水対策として、オランダから技師ヨハネ・デレーケを招いて新淀川を開削し、明治43(1910)年、直線的に大阪湾に流れるようにしました。水没したのはこの時のことです。 →蕪村生誕場所はどこ?(こちらをクリック)
 なお、蕪村が毛馬にいたことがはっきりしているのは13才のころまでで、それから江戸へ出る20才までの足取りは不明だとのことです。

手前が閘門内の水位
水色ゲート外の下流側とは水位差がある

 次に訪れたのは毛馬閘門。淀川と大川は水位差があるため、行き来する船舶はここを通過しなければいけません。水位差は最大で約2メートル。ここはいわば「日本のパナマ運河」で、閘門は水量を調節する機能を持っています。取材時、上流側、下流側ともゲートが閉じられた閘門内の水位は、上流側と同じ高さでした。この状態で、もし、下流側から船が通るとしたら、まず下流側のゲートを開けて水を下流側に流して水位を同じにし、船を閘門内に入れます。それから下流側のゲートを閉め、今度は上流側のゲートを開けます。すると上流側から水が入って閘門内の水位が上がり同じになるため、船が出て行けるという仕組みです。現在、ここを通過するのは砂利運搬船が中心だということです。
 なお、この閘門は三代目。今では使われていない初代と二代目も保存されていて、どちらも国の重要文化財に指定されるほどの近代建築遺産です。

毛馬第一閘門の底を歩く

 その初代閘門である「毛馬第一閘門」は、明治43年に造られた際の姿をほとんどそのまま残しています。 今、稼働している閘門のゲートが上下するタイプなのに対し、こちら初代と二代目は観音開き。それが違うだけで、あとの仕組みは同じだそうです。当時の川底にまで入って、いつでも見学できる初代の閘門。これが使われていた時の淀川と大川の水位差は1メートルだったそうです。

 この日、最後に訪れたのは毛馬橋。 橋そのものは比較的新しく、蕪村の時代は渡しで毛馬村と大阪がつながれていました。「春風や 堤長うして 家遠し」
の句は、実は大阪に勤めに出ている毛馬村の若い女性が、とぼとぼと毛馬堤を歩いている情景を描いた句だと言われています。その意味で、蕪村を語るのにこの毛馬橋は欠かせないとのこと。橋の欄干には、毛馬の地名にちなんで馬の鞍をかたどった飾りも施されています。

毛馬橋

長谷川さんが担当する、 大阪あそ歩「水の底に消えた蕪村のふるさと・毛馬村〜春風や堤長うして家遠し〜」のコース

都島駅(集合)→渡辺綱の大楠→毛馬桜之宮公園→淀川神社→蕪村生誕碑→毛馬の閘門→毛馬橋→バス停「毛馬橋」(解散)
  *9月下旬に再開予定

  *大阪あそ歩のサイトはこちら→クリック