大阪佃史探求風とみどりの会の皆さんと
左から2人目が八木さん(田蓑神社にて)

 大阪市立佃小学校(西淀川区)と中央区立佃島小学校(東京都)は、毎年、交互に子供たちやPTAが訪問しあって交流をしています。「大阪市佃史探求 風とみどりの会」の八木一夫さんは、PTA会長を務めた関係などから何度か東京の佃島小学校を訪ねるうち、東西「佃」の歴史上の関係を物語る演劇を佃島小学校の子供たちが演じているのを観て感激。大阪でもなにかをしようと思い立ち、地元の仲間たちと「大阪佃史探求会」を結成し、佃の歴史に関する資料を収集、2003年7月に「佃史探求」という1冊の本にまとめあげました。その後は、会を「大阪市佃史探求 風とみどりの会」とし、テーマごとに歴史を調べてまとめたり、総合学習に協力をしたりといった活動を続けていて、現在は大阪あそ歩の「佃・大和田コース」のガイドも務めています。
 佃史探求によると、1586年に家康が住吉大社(大阪史)と多田神社(川西市) に参拝した際、神崎川を船で渡したのが、家康と佃の漁民との交流の始まりとのこと。

見市家所蔵資料館

 江戸開幕後の1612年には、将軍家に献魚の役目を命じられ、佃村庄屋の森孫右衛門と佃村および大和田村の魚民、田蓑神社宮司の弟からなる総勢34名が江戸に入り、小石川の安藤対馬守屋敷内に住居を与えられました。その後、献魚と功績に対して、日本のいたる所での漁業権と税金の免除という特権を与えられ、江戸と大阪の佃漁民はこれを行使しました。
 1630年には、幕府より隅田川河口の干潟埋め立ての許可を得て、14年の歳月をかけて造成し、そこを大阪の佃村にちなんで、「佃島」と名付けました。現在の東京都中央区佃島の始まりです。

  佃連合振興町会の平田房夫会長に伺ったところ、東京の佃との交流は小学校の交歓会以外でも行われているとのこと。約400年前に江戸に下った佃漁民は、故郷をしのび、先祖を供養するために盆踊りを踊りました。東京都指定無形民俗文化財であるその「佃島盆踊り」を、今から30年ほど前、大阪の佃に“逆輸入”し、8月9〜11日の3日間、毎年、踊っているそうです。念仏踊りのような踊りで、民謡ではなく、生の地声と太鼓の音色にあわせて踊るのが特徴とのことです。

田蓑神社にある
「佃漁民ゆかりの地」の碑

 

 お話を伺った後は、佃の散策を楽しみました。
 最初は、阪神・千船駅近くにある「見市家(みいちけ)所蔵資料館」。15世紀、17人が入って佃開拓を始めたうちの1人が、この見市家。正確にはここは分家筋ですが、残っていた貴重な資料を蔵を改築して展示。予約をうけた上で公開をしています。八木さんには「見市家抜きに佃は語れない」とのこと。
  *資料館は、普段は一般公開されていません。
 
 2箇所目は田蓑神社。869年に勧請されたといわれ、住吉の3大神と神功皇后の四柱が、佃の産土神として鎮座しているそうです。境内には大阪市による「佃漁民ゆかりの地」の碑が建てられていて、家康と佃漁民の関係について説明が書かれています。

放送で紹介はされませんでしたが
森孫右衛門の墓がある正行寺へも

 ところで、もう一つ気になるのが「佃煮」の歴史。東京起源説と大阪起源説があるそうですが、会では、それについて「つくだグルメ通り」という冊子にまとめています。それによると、桑名(三重県)発祥のしぐれ蛤(はまぐり)の「貝新」の初代が、豊臣時代、ハマグリの貝殻を薬入れとして大阪に運んで売っていました。その船の寄港地が佃。その際、運んで来た人々が、弁当のおかずに煮たハマグリを添えているのを見て、その作り方を教えてほしいと佃の漁民が頼んだそうです。それを元に大阪の佃周辺で獲れた雑魚類を煮しめて作り上げたのが、現在の佃煮のルーツのようで、大坂の陣では、家康勢に差し入れもしたとのこと。ただ、その時点で佃煮とは呼ばれていなかったと思われ、それが江戸に移住した佃漁民により商品として売られるよになって、佃煮と呼ばれ始めたのだろうと推測されるそうです。