左から  藤原、松本さん、山西さん、山根さん
(「そば切り てる坊」の川床にて)

 京都の鴨川「納涼床(のうりょうゆか)や貴船「川床(かわどこ)」のような、大阪版の川席は川床(かわゆか)と呼ばれ、土佐堀川沿いで「北浜テラス」として行われています。2008年10月に1ヶ月間だけ実験的に3店舗で行われたのが始まりでしたが、それ以前から、地元の皆さんやNPOの皆さんが、それぞれに川床をしたいという思いを抱いている中、偶然の要素などが重なって、2008年の実現に結びつきました。
 そのきっかけを作ったのは、現在、「そば切り てる坊」を経営する山西輝和さん。てる坊の入る「忠次郎ビル」のオーナーで「北浜水辺協議会」理事長も務める山西さんは、2006年と2007年に換気扇の修理という名目で河川敷に工事用の足場を設置し、母校ラブビー部OBたちを集めて一献を持ちました。
  それを偶然見つけたのが、2軒隣の「Y'sピア北浜ビル」オーナーで町づくり団体「omp(大阪まちプロデュース)」主宰、北浜水辺協議会事務局長の山根秀宣さん。自らのビルで川床を夢見ていた山根さんは、NPO法人水辺のまち再生プロジェクトNPO法人もうひとつの旅クラブを山西さんに紹介。本格的な取り組みをスタートさせました。

船が通ると乗船客と
必ず手の振り合いになるという

 山西さんの高祖父と曽祖父は、明治4年ごろから明治44年まで、この地で料理旅館を営んでいましたが、当時は京都の宇治から外輪船が近くの八軒家浜に着き、そこで小舟に乗り換えた旦那衆が、直接、建ち並ぶ料理旅館の中の目当ての店に乗りつけ、川側から入っていったそうです。その「DNAを受け継いでいる」のか、山西さんは、2004年にビルを建て替える際、将来、足場さえ組めば川側からも出入りできるような構造にしました。
  一方、山根さんは、あるNPOの活動として、2003年、ユニバーサルデザインの一環として、みんなが楽しめるような町づくりのため、川に背を向けているビルが、川側からも入れるような構造にしていくことがいいのではないかと大阪府に提言していました。そして、 大久保利通、木戸孝允、板垣退助、井上馨・伊藤博文が集まって日本の三権分立を決めた「大阪会議」の開催された料亭ビルを2006年に購入。そのレリーフを土佐堀通側に設置するとともに、土佐堀川側からも出入りできるような大工事を行いました。

今年から加わった「MOTO COFFEE
写真提供:北浜水辺協議会

 建築事務所主宰でNPO法人水辺のまち再生プロジェクト副代表の松本拓さんも、水辺の町づくりを考える中で、以前から川床構想を抱いていた1人。2007年末ごろから実現に向けて本格的に取り組み始めた矢先、土佐堀川での動きに合流することになりました。建築のプロとして難関に挑みましたが、まず当たった壁は、河川敷が国の土地であるため、民間業者の営利目的に使用許可が出ないこと。また、川床の設計上でも、建築基準法の適応対象から外れるような工夫やコストの低減にも苦労を重ねました。
 翌年に開催を控えていた「水都大阪2009実行委員会」という準公共団体が申請したことにより、2008年10月、ついに実験的開催が実現。さらに2009年5〜7月にも、水都大阪2009での本格開催を前にした社会実験として許可が出ました。川床は、その2回については工事用の資材を使った組み立て式。しかし、8月22日〜10月14日までの水都大阪2009開催期間からは、常設の足場を設置することが許され、さらに、同年11月からは、北浜水辺協議会という民間団体に対して初めて許可が下ろされました。

3/19の川床開きの様子
写真提供:北浜水辺協議会

     

 今年2010年からは、新たに1店舗を加えた計4店舗で開催。京都の場合はシーズンオフに川床をばらし、どこかに保存しておかなければなりませんが、土佐堀川の川床は年を通して常設OK。しかし、地元ではあえて3月下旬から12月末までという開催期間を設けることにより、3月川床開きという話題性を持たせる戦略を取りました。
  室内から見る風景が視界180度なのに対し、川床に出ると270度になる。とくに夜景は絶品で、中央公会堂、西梅田や大阪駅周辺のビル群など、借景としては最高のロケーション。大阪とは思えないような風景が広がると、山西さんは説明にも力が入ります。ただし、完全に晴れている時はいいものの、雨が降るかもしれないという日は、降り出した際に室内に入っていただく席を確保しておかなければならず、売り上げに直接結びつくというような甘い商売ではないとも。また、49才で脱サラして6年目となるそばの味については、「まだまだこれからも修行が必要」と自分に厳しい面も見せていました。

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