平野川

 大和川は、1704年の付け替え前まで大阪府柏原市あたりで流れを大きく北に変え、大阪城の近くで淀川水系の川とつながっていました。柏原から何本かの川筋に分かれていたのですが、その内の1本が平野川でした。この平野川が流れる 平野区、生野区、東成区、城東区の区民が、「平野川協議会」をつくり、平野川を中心としたまちづくりに取り組んでいますが、今回はその構成団体の一つである「生野区平野川ふれあい協議会」を訪ねました。
 左の写真は、コンクリート護岸により水面が見づらくなり、また風景も味気ないものになったため、壁面に子供たちによるウオールペインティングを施した「アートギャラリー」。これにより町の雰囲気ががらりと変わったそうです。まず、協議会が子供たちから(絵の具で描いた)作品を募集し、30点弱を選び、それを専門家に図案化してもらった上で、再び子供たちにペインティングしてもらいました。今年もまた行うそうです。
 船で平野川を行き、普段、上からしか見ていない橋を下から町を見る取り組みもしています。 城東区、東成区、生野区、平野区の4区合同ウオッチングでは、それぞれの区を通る際にそれそれぞれの橋の解説をしていきましたが、生野区では中川正弘さんがガイドを担当しました。参加した子供たちは大喜び、間近に見る平野川の水が意外に澄んでいることにも驚いていたそうです。


右から(藤原)、中西義昭会長、中川正弘さん、
西川善平さん、石見君代さん

 EM菌の投入による浄化活動にも取り組んでいます。西川善平さんによると、EM菌とは水を奇麗にする善玉の微生物。今回は、。大阪市立舎利小学校の2年生の子供たち54人と、EMだんごとEM汁を作って投入したそうです。
 その際、子供たちに平野川のことを紙芝居を使って説明したとのこと。石見君代さんによると、生野区では平野川に多く橋が架かっているため便利な反面、家が多くて汚れやすいことを、クイズを交えながら解説したそうです。

  また、中西義昭会長は、護岸壁がなかった子供の頃、平野川は梅雨時や秋になると水があふれ、また、夏には網でフナやコイ、ナマズやタイワンドジョウなどの魚をすくった思い出を語ってくれました。

舎利寺の鐘

 お話の後は、お待ちかねの町歩き。木村忠史さんのガイドでまず訪れたのは舎利尊勝寺(舎利寺)。 ここには伝説があります。1300年ほど前、この辺りに「生野長者」という立派な人が住んでいましたが、その子供が言葉を話せませんでした。ちょうどその頃、四天王寺を建設中の聖徳太子がその子を呼び、前世であなたに預けた三つの仏の骨をのどから出しなさいと言いました。その子が骨を出すと話せるようになり、太子はその骨を法隆寺、四天王寺、生野長者に預けたそうです。長者は喜んでお堂を建てたのが、このお寺お始まりだそうです。
 舎利寺の鐘には、そんないわれが刻まれているそうですが、大晦日には除夜の鐘がつかれるそうです。


耕整橋

 ウオールペインティング沿いに歩くと、耕整橋に出ました。かつて平野川は曲がりくねり、大雨が降ると氾濫を繰り返す暴れ川でした。そこで、大正末から昭和初期にかけて「鶴橋耕地整備組合」が結成され、平野川をまっすぐな運河にする工事が始まりました。その際、韓国の済州島から大勢の人を集めて労働力をまかなったそうです。ただ、かなりの重労働だったそうで、その体力を養うために済州島の人たちが生み出した食べ物が、今日の焼肉につながったのではないかと木村さんは想像しているそうです。
  耕整橋の名は耕地整備組合から付きました。


木村忠史さんと
 

 放送では紹介されませんでしたけど、もちろんコリアタウンにも行きました。町歩きの際、ここは誰しもが大喜びする人気スポット。キムチづくりが体験できる「班家 食工房」などに連れていっていただきました。

  なお、3月14日(日)、東成区民ホールで平野川協議会主催「平野川フォーラム」が開催されます。
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平野川フォーラム