みなとQ(左下は編集室)

 月刊フリーペーパー「みなとQ」は、行政書士の織田満富(おりたみつと)さんが1983年9月、仕事のプラスになればと異業種交流仲間3人と発行し始めた情報誌です。織田さんの地元である港区をエリアに創刊し、隣接地区からのリクエストに応える形で南港(住之江区)や大正区にまで広げた時期もありましたが、現在は港区全域と西区の一部で52000部を無料配布しています。「みなと」は港区を中心にしたベイエリアを意味しますが、「Q」は当時の流りから付けたもので、とくに意味はないそうです。変形A4版、16ページ。
 当初は満富さんが行政書士の仕事をし、その手数料代わりに広告を入れてもらうという状態でスタートしましたが、内容評価とともに広告も入るようになりました。しかし、全員が本業を持ちながらの発行のため、多忙のあまり、ついに満富さん1人で切り盛りすることに。広告収入はすべて印刷費用に消えてしまったため給料は出ず、“ボランティア”状態が続きました。
 一方、内容は行政関連の情報が中心で「おもしろくない(満富さん)」状態。それを変えたのが満富さんから手伝ってほしいと言われて加わった妻の康子さんでした。


編集人の織田康子さんと発行人の満富さん

 専業主婦として子育て中だった康子さんが満富さんからフリーペーパー発行の話を聞かされたのは、創刊準備号の編集作業に入ってからのこと。まずは、多忙で留守がちの満富さんの事務所の電話番をするつもりで手伝い始めましたが、みなとQの内容について主婦の視点で内容を見直し。それが27年発行を続ける原動力につながりました。
 港区出身でない康子さんは、みなとQの編集に関わることで港区のことを詳しく知ることになり、港区が大好きになりました。地域との関わりも色々と出来、10年ほど前には、大阪商工会議所の地域活性化事業として 「はしけフェスティバル」を展開。地域の学生や主婦、先生など、“おもしろがり”の人に集まっていただいて、ウオークラリー&フリーマーケットや、銭湯やお寺での寄席などをしました。
 康子さんの一番の思い出は、創刊号に高校の国語の先生からいただいた感想と激励の投書だそうです。

波除山は現在の波除山跡よりも
安治川寄りにあったとのこと

 みなとQについて伺った後は、満富さんに弁天町かいわいの散策に連れて行っていただきました。ラジオ大阪の地元ですが、知らなかったことばかりで驚き。満富さんによると、みなとQの創刊当時は、ラジオ大阪のあるオーク200がまだなく、空き地になっていて、毎年、盆踊りが行われていたとのこと。また、天保山の海遊館もなく、倉庫だったそうです。
 そんな満富さんとまず 訪れたのは、波除(なみよけ)公園にある市岡新田会所跡と弁天東公園にある波除山跡。
 1704年に付け替えが行われる以前の大和川は、現在のように大阪湾に直接注いでおらず、大阪府柏原市あたりから北上して大阪城近辺で淀川水系の川とつながっていました。そのために洪水がたびたび起きましたが、徳川五代将軍綱吉の時代は幕府が財政難だったため、大規模な付け替え工事ではなく、まずは治水の専門家だった河村瑞賢による安治川開削が行われました。それにより出た土砂で出来たのが波除山であり、また、土砂での埋め立てによる新田開発も行われました。


笑顔が素敵な美馬佐安子さん(中央)

 以前にみなとQの編集部員だった美馬佐安子さんも加わり、「石炭倉庫」なるところへ。ここは昔、石炭置き場である蓄炭場だったところで、それにちなんで石炭倉庫とネーミングした劇場を造ったとのこと。劇団 「あんがいおまる一座」の拠点となっているほか、ライブなども行われています。
 ところで、美馬さんは、元々みなとQの読者でした。葉書に絵を描いて投稿したところ、本文ではなく表紙に採用されたのがきっかけとなり、17年間、編集に携わったそうです。今も、時々応援に訪れることもあるそうですが、こんなところでも、みなとQと地域の方々との密着ぶりが伺えます。