大塩事件研究会・酒井一会長

 大塩事件(大塩平八郎の乱)は、江戸後期の天保8(1837)年2月19日、大坂東町奉行所の与力だった大塩平八郎が、幕府に反旗を翻した事件です。「天保の飢饉」で民衆が苦しんでいるのにもかかわらず、奉行所は助けるどころか、大阪の豪商たちと癒着しているのが許せなかったためです。
 そんな平八郎の人物像にひかれる人は多く、大塩事件研究会も全国に約160人の会員がいます。会長で三重大学名誉教授の酒井一さんには、4年前にもお話を伺いましたが、今回、再び大塩事件が大阪で脚光を浴びるきっかけとなりそうな出来事があったからです。
 大阪市内には、大塩事件に関連するスポットがいくつかあります。今回は、酒井会長とそうしたスポットを回り、173年前に徳川幕府を大きく揺るがした大事件に思いをめぐらせることにしました。


植樹祭の様子

 取材は、大阪市北区天満にある大阪造幣局前からスタート。国道1号歩道上に「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」と刻まれた石碑があり、横に木が植えられています。この一画は大阪の奉行所に勤めていた与力や同心の家があったところで、槐の木は朝岡という有力与力の屋敷の裏庭にありました。天保8年2月19日、大塩の反乱は大砲の一撃から始まりましたが、最初の一発がその木に当たりました。木はその後も生き続けましたが、排気ガスにより傷み、幹が空洞になって危険なため、1984年3月に伐採されました。その後、一度植樹されたもののうまく育たず、今回、三代目の木が1月26日に国土交通省大阪国道事務所により植樹されました。


洗心洞跡

 2カ所目は、造幣局の敷地内にある「洗心洞跡(せんしんどうあと)」と刻まれている石碑。ここは、平八郎が自宅で開いていた私塾の洗心洞があったところです。当時の与力は、敷地がほぼ500坪ある家が与えれ、平八郎はそこで同僚の与力や同心、その子弟、淀川や京街道沿いの豪農、村の有力者で、全てが男性でした。平八郎は陽明学者としても群を抜いていたため、同じ与力にも教えていたそうです。なお、平八郎が公務や病気で休む時には、妻のゆうが教えました。そうそうたる男性に女性が解説をするのは、当時としては大変に異例。しかも大阪・曾根崎新地のお茶屋の娘で、武士とは結婚できない身分であるにもかかわらずそうであったことは、彼女の優秀さを物語っています。


旧鴻池家本宅跡

 中央区今橋2丁目の大阪美術倶楽部前。ここには、旧鴻池家本宅跡の石碑があります。ここは、大阪きっての豪商だった鴻池善右衛門の本宅跡。平八郎は、難波橋を渡って船場に入ると、この家を襲撃しました。173年前の2月ごろは、このあたりでは道行く人が栄養不良でばたばた倒れていたそうで、その現実を見た大塩は、窮民救済を鴻池に願っていたものの、それを拒否されました。鴻池もそこそこお金を出して難民救済に努力したものの、平八郎はさらなる救済を望んでいたわけです。


大塩平八郎終焉の地

 最後は、西区靱本町1丁目にある大塩平八郎終焉の地と刻まれた碑です。乱が起きてから行方をくらませていた平八郎は、ある晩、ここへ逃げてきました。美吉屋五郎兵衛という手拭い地の卸売商のところへ息子の格之助とともに入りました。美吉屋五郎兵衛は屋号から言って、阿波の出身者。平八郎の祖父も阿波の出身と思われ、今も阿波座などの地名が残る阿波の人が多かったこの地区に逃げ帰り、美吉屋五郎兵衛宅の離れに潜伏しました。しかし、米の減り方が不自然だったことに女性奉公人が不審を抱いたことをきっかけに、平八郎は40日ぶりに幕府に発見されました。最期は火を放って息子と差し違えるようにして迎えましたが、それがこの地なのです。
 ところで、平八郎は乱を起こす2日前、幕府の要職者が大阪在職中にした不正を暴く密書を江戸に送りました。乱が制圧されて直ちに切腹せず、40日間も潜伏していたのは、その結果を確かめたいという思いがあったのではと酒井さんは見ています。