2010年2月6日(土)放送

左から 小田康徳教授、藤原宏美、吉岡武会長

 

“軍都大阪”の貴重な歴史遺産を守れ
旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会

陸軍墓地は、明治4年から太平洋大戦終了まで、陸軍が全国に80以上造り管理していた墓地で、大阪市天王寺区の旧真田山陸軍墓地は、その第1号です。兵部省の初代大輔(たいふ)・大村益次郎が大阪を陸軍創設の場にするために次々と大阪に陸軍関係施設を設置しましたが、ここもその一つでした。戦死した陸軍の軍人はもちろん、平時に訓練や病気により死亡した軍人や、軍属、軍の仕事を請け負った人、敵国の捕虜なども埋葬されています。
戦後は国からの無償貸与の形で大阪市が管理していますが、墓石などの風化が進み、貴重な史実が刻まれている歴史遺産が危機を迎えています。そこで、約10年前に「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会(現在はNPO法人)」が結成され、調査活動や保存の訴えをしています。今回は、理事長の小田康徳大阪電気通信大学教授と副理事長の吉岡武空堀振興町会長にお話を伺いました。


左は第一大戦で捕虜となり、大阪で死亡したドイツ人の墓石。昭和初期、名誉のため「俘虜(=捕虜)」の文字が消されました。清国(中国)人捕虜の墓もあります。
右は明治10年にあった西南戦争での死者の墓。風化が進行。あまり知られていませんが、西南戦争時、大阪は官軍の拠点となりました。

明治37〜38年の日露戦争は、日清戦争とは比較にならない大戦。犠牲者が多くて個人の墓が建てられたのは初期のみ。あとは合同墓となりました。左から、兵卒、下士官、准士官、将校の合同墓石。位により墓石が大きくなっています。また、日中戦争や太平洋戦争時は、これでも間に合わず、納骨堂が建てられました。

墓石は、兵卒、下士官、准士官・・・というくくりごとに高さが統一され、ブロックごとに集められているため、整然とした印象を受けます。
また、ここ「旧真田山陸軍墓地」は、隣の三光神社と並ぶ桜の名所。吉岡さんのような地元の皆さんが、植樹や肥料やり、植樹などをして、維持管理にあたっています。