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国宝大塔 大門
根来寺・国宝大塔 大塔も紀州攻めで焼けることはなかった 大門は根来一山の僧門(高さ16.88 m、横幅17.63 m、奥行6m)

 根来寺は、平安末期の1132年、興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)上人が、高野山に大伝法院を建てたのが源流です。上人は20歳のころに高野山に入りましたが、その名声や地位が高まると、元々高野山にいた僧侶の反発を招きました。上人は争いを避け、当時の地位をすべて弟子に譲って根来に移り、1143年にここで世を去りました。その後、鎌倉時代後半の1287年から88年ごろに、学頭・頼瑜(らいゆ)が活動の拠点をこの地に移したといわれています。

弾痕
大伝法堂(本堂)は1801年に再建された 国宝大師堂は秀吉の紀州攻めにも焼け残った。 大塔には弾痕がいくつも残っている

 室町時代になると、幕府将軍家の支援を得て発展し、紀州の北部や大阪の泉南地域にも布教活動を進め、15世紀末から16世紀に一番の隆盛期を迎えました。
 よく知られる僧兵の根来衆は、一般的なイメージのずきんと黒装束ではなく、実際はざんばら髪でかぶとやよろいを着けていたようです。鉄砲については、根来寺にいた杉之坊が、津田監物(けんもつ)を種子島に遣わして鉄砲を入手し、根来坂本の鍛冶職人の芝辻清右衛門に作らせたとの伝承があります。

本坊庭園 本坊庭園 光明真言殿
本坊庭園(国指定名勝) 本坊庭園には自然の滝と池が配されていて希望すれば拝観できる 光明真言殿(光明殿)興教大師像を安置

 織田信長の没後、天下統一を進める羽柴秀吉の約10万の兵による紀州攻めにより、根来寺は全山が炎上しましたが、本堂三尊、大塔、大師堂は焼けずに残り、今に至っています。国宝大塔は高さ約37mで、1階部分の幅が15mもある日本最大の木造多宝塔。資材を集めはじめてから完成までに、約70年を費やしたといわれています。

 根来寺への入口近くに、岩出町民俗資料館があります。岩出町について、六つのコーナーに分けて紹介展示が行われており、中世のコーナーでは、根来寺に関する展示や鉄砲の展示もあります。また、地元の皆さんを対象にした、伝統産業の根来塗を伝承する講座も開催されています。


行者堂 根来寺境内 岩出町民俗資料館
行者堂 御本尊は修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ) 根来寺境内 岩出町民俗資料館

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近畿道ものがたり取材アルバム 道でたぐる想い出の糸