|
JR播州赤穂駅前の大石内蔵助像 | 坂越「大道」 |
大勢の観光客でにぎわう赤穂城跡 | 赤穂城のお堀端に建つ赤穂市立歴史博物館「塩と義士の館」 | 博物館1階にある塩廻船模型「赤穂丸」全長約7.5 m、幅約2.3 m江戸時代末期から明治時代の千石積み弁財船を想定して復元された |
JR播州赤穂駅前のロータリーには、大石内蔵助の像が建っていて、その周りを取り囲むように赤穂義士の錦絵の看板が並んでいます。ここはまさに四十七士の町。 赤穂城跡に隣接して、ユニークな形をした赤穂市立歴史博物館「塩と義士の館」があります。江戸時代に米蔵が建っていた場所のため、このような形にデザインされたとのこと。内部は、1階が赤穂の塩に関する展示、2階が赤穂の城と城下町や、赤穂義士などに関する展示が行われています。博物館によると、大石内蔵助は120人ぐらいから同志であることを誓う文書を出させた上、仇討ちの意志がなくなった旨の返事を全員に返し、それで納得した者には脱落させ、抵抗して本当に仇を討ちの決意を見せた者だけを同志として残したとのこと。それが四十七士へとつながっていったわけです。 |
仮名手本忠臣蔵に関する展示 | 変形輪郭式の海岸平城(ひらじょう)で天守閣は造られなかった | 大石神社の参道には四十七士の像が並ぶ |
千種川沿いに上がって坂越(さこし)地区に来ると、石畳風に整備された道の両側に、古いたたずまいを残す家々が並ぶ「大道」があります。 坂越は、京都の広隆寺を建てた秦河勝(はたのかわかつ)が、7世紀中ごろに漂着して開発した街です。港は天然の良港であり、前に浮かぶ生島が防波堤の役目をしているので、16〜17世紀に廻船業で栄え、赤穂の塩を一手に引き受けては、大阪や東京へと運びました。その中心の「大道」は、奥藤酒造を中心に酒蔵や町家が並ぶ道。観光案内の拠点として使われている「坂越まち並み館」も、奥藤家が以前に銀行業をしていた建物を借りて使っているため、内部に金庫が残っています。また、「旧坂越浦会所」は当時のオフィスとしての役割にとどまらず、森藩の藩主が「観海楼」という部屋で泊まって舟遊びをしたという旅館のような役割をも果たしました。 |
坂越大道にある奥藤酒造 | 坂越まち並み館に残る銀行の金庫 | 旅館の役割もした旧坂越浦会所 |