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西国街道・芥川宿
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 西国街道の起源は奈良(後に京都)の都から九州の太宰府まで結んだ山陽道です。そのうち、京都の東寺から西宮あたりまでが、明治時代に西国街道と名付けられました。国道171 号とほぼ並行しています。
 JR高槻駅北側の芥川商店街を西に抜けると「芥川一里塚」があり、そこから50mほど行くと芥川宿の古い家並みが残っています。この辺りにはかつて30軒以上の旅籠(はたご)があり、また市場もあったようです。
 さらに西に進むと、約700年前に建てられた教宗寺があり、境内には約1.8mの「石風呂」と呼ばれるものがあります。以前、風呂か棺かで議論されましたが、水抜き用の穴があることから、宗教的な行事に使われた風呂であることが分かっています

芥川一里塚 約700年前に建立された教宗寺 「石風呂」の役割論争は風呂で決着

 芥川宿を出たところにある石垣は、昔、この宿を水害から守るために造られた堤防にあたるもの。道の両側にある柱には縦方向に溝が切ってあり、川の水があふれそうな時にここに頑丈な厚い板を落とし込んで水を止める、水門の役割を果たしました。
 もう少し西の水田からは、西国街道と真っ直ぐ北へ延びる道とのT字路の跡が見つかっています。その道は石で舗装された立派な道で、北へ100mほど進むと、奈良・平安時代の役所があった「嶋上郡衙跡(しまがみぐんがあと)」があり、中心施設である郡庁院跡が復元されています。他にも蔵やお寺などが集まり、さらに西には勤めていた役人が住んでいた村の郡家今城遺跡があります

あちこちにほこらや地蔵尊がある 洪水の時には水門の役割をした 復元された嶋上郡衙跡(しまがみぐんがあと)の郡庁院跡

 西国街道と茨木・能勢・妙見山へと向かう分かれ道を妙見道の方へ少し入ると、淀川北岸では最大級の前方後円墳で6世紀前半に造られた今城塚古墳があります。織田信長が京都から西国街道を高槻へ攻め上がる際、この古墳をお城に造り変えました。敵がいる北側は複雑な地形にし、西国街道に面した南側は堀を埋めて補給基地にするという工夫をしています。

道標 右は山崎・京都 左は池田・神戸 史跡今城塚古墳の石碑 今城塚古墳

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近畿道ものがたり取材アルバム 道でたぐる想い出の糸